フィクション世界を真面目に研究する遊び『ゾンビで分かる神経科学』

薬学をやっている弟に借りて読んだ本。ゾンビにも神経科学にもそんなに興味はなかったが、ゾンビと神経科学を組み合わせて本を書こうという作者の考えが面白いと思ったので読んでみた。

 

神経科学というのは、人間とか動物とかが神経や脳を使ってどのように世界を認識してそれにたいして行動を起こしていくか、のメカニズムを解明しようとする学問だ(正確な定義ではないと思うが)。そしてゾンビは神経や脳の機能が損なわれた存在であるがゆえに、神経や脳の様々な働きを説明するのに都合がよい。そのためフィクション上の存在ではあるが、筆者はゾンビの脳のどの部分が損傷していると考えられるかを真面目に診断し、それを踏まえてゾンビに食われないためのアドバイスを伝授してくれる。

 

例えば、ゾンビは記憶力と注意力が低い。これは側頭葉と頭頂葉の損傷のためだそうだ。だからもしゾンビに遭遇して逃げることが難しければ、物陰に隠れてゾンビが他のことに注意をとられるのを待つのが良いとのことである(ゾンビには痛みへの情動的反応を処理する神経回路が残っていないため、闘うのは推奨されていない)。

 

というような実践的(?)な助言も得ることができるが、基本的にはこの本は神経科学の説明にゾンビを使う、という進め方なので、見た目の割に真面目な本だし、知覚、認識、運動、睡眠に関わる脳の様々な働きについて広く知ることができる良書だと思った。

 

ゾンビは危険で怖い存在だけども、「特殊な神経障害に掛かっている人間」にすぎないと理解すれば怖さも少しは薄れる。これは科学的な手法によってゾンビが「意味不明なもの」から「理解可能、対処可能なもの」に変わるからで、そういう意味で科学は心強いなあと思う(ゾンビはフィクションだが)(フィクションの世界の物を冷静に科学的に分析する面白さは『空想科学読本』のそれと似ている)。

あと作者のゾンビ好きが高じてできた本なので文章が楽しそうなのも良かった。

 

 

戦争は撃ち合うだけじゃない『補給線』

戦争と言えばやっぱり戦闘の場面が真っ先に思い浮かぶ。戦車とか兵士とかが陣形を組んで激しく撃ち合いをして、走ったり血を流したり絶望したり歓喜したりするような、そんな場面。そこでどのように行動するかが勝敗を決める、と早計な人は考えがちだが、勝敗を決めるのはそこだけではない。

 

戦闘に至る道のりを進み、弾薬や食糧を調達し輸送する、というところから戦争はすでに始まっている。戦争での人や物の輸送・移動を「兵站」というが、兵站も戦争にとって非常に重要な側面らしい。

 

兵士も人間なので食べないと戦う前に死んでしまう。弾切れになったら降伏するしかない。兵站・補給は簡単な問題のように見えるが、必要な食糧や弾薬の量が膨大になることから、実は全然簡単ではなく、むしろ戦争のしかたに強い制約を加える要素なのである。そういうことを書いたのがこの本。マニアックだが戦争本界隈では名著扱いされているようだ。

 

補給制度がなく、食糧などを馬に運ばせ、それが尽きたら周辺の村から強奪したり購入したりしていた16~17世紀から、ナポレオンを筆頭に補給制度が試行錯誤のうちに作られはじめ、そして鉄道や自動車が発明されて兵站の形が変わっていくまで、兵站がどう戦争に制約をかけてきたのか、そしてかつての指揮官らはいかにしてその制約の中で最大の成果を上げる工夫をしてきたのかが執拗なまでに詳しく具体的に書かれている。

 

正直かなり難しくて何度もギブアップしかけたが、読み終わる頃には戦争への理解が一段以上は上がるような本だと思った。しかしむずい。

 

 

鋭く愛のある人間観察 『無名仮名人名簿』感想

ドラマ脚本家・向田邦子氏のエッセイ集。

 

大人といえば「真面目で、品行良く、気が利き、しっかりとした人」という大人像があると思うが、実際のところ世の中にはそうでない大人も多く存在する。まぬけだったり怠惰だったり、妙な癖があったり卑しかったり。そういう、いわゆる人間のだめな部分、弱い部分を観察して詰め込んだような一冊となっている。

 

読んでると、自分の数々の欠点がまとめて許されたような気になってくる。世の中にはしっかりしていない大人も多いけど、そういうだめな部分、人間臭い部分を愛おしむ筆者の視点が新鮮で、素敵だと思った。

 

無名仮名人名簿 (文春文庫)

無名仮名人名簿 (文春文庫)

 

 

知識はワインの味わいを何となく増してくれる 『基礎ワイン教本』感想

聖書なんかにも出てくるぐらい、欧米では親しまれているワイン。もちろん日本人も飲むんだけど、自分としては学生時代に初めて飲んで以来、どこか取っつきにくさみたいなものを感じていた気がする。

個人的にはフレンチやイタリアンは大好物だし、そういう食事にはワインが一番よく合うとも理解している。ただ、ワインって本当に小難しいっていうか、種類もめちゃくちゃに多いし、謎の横文字がつきまとうし、マナー的なものもややこしくて、好きなんだけどどこか遠い存在だと感じていた。
…そう、この本に出会うまでは。

この本はそんなワインへの取っつきにくさを消し去ってくれる。ワインの歴史や製法、地域ごとの特色、等級、味わい方、などなど、淡々とした文体で初心者向けに過不足なく教えてくれる(あとなぜかビールやウイスキーなど、ワイン以外のお酒の説明もある)。

面白いと思ったのは、土壌や気候、ブドウの品種や樽の種類など、無数の要因が味に影響してるということ。ワインを飲みながら、この液体が自分の口まで届けられるまでの壮大な背景に思いを馳せることができるのって、なんかロマンじゃないですか?
別にワインの味が変わるわけじゃないけどね。

基礎ワイン教本―ワインのABCからビール、スピリッツ、リキュールまで

基礎ワイン教本―ワインのABCからビール、スピリッツ、リキュールまで

●類書

図解 ワイン一年生 (SANCTUARY BOOKS)

図解 ワイン一年生 (SANCTUARY BOOKS)

こちらの方がワインを味わうことに重点が置かれていて、実践的。またイラストとかがふんだんに使われてて読みやすい。

夢を追いかける傍らに犬がいる『ウイスキー!さよなら、ニューヨーク』感想

写真家宮本敬文氏が写真家を志してニューヨークに渡り、そこでどう生きたかを記録した自伝。題の「ウイスキー」は酒ではなく、ニューヨークにいる間に飼うことにした犬の名前。

多分写真だけじゃなく文章がめちゃ上手い人で、夢を追いかけたいという野心と、夢を追いかけることに伴う孤独感や焦燥感、そしてそれらを癒してくれるウイスキーに対する愛情や感謝、これらの感情が読者にもストレートに伝わってくる、とても良い本だと思った。あと一生懸命で衝動的なところ、素直さ、遊び心を併せ持っている筆者自体の魅力。そしてどんなけウイスキーのことが好きやねんって言いたくなるぐらいの、ウイスキーについての記述の細かさ。人と犬の関係の一つの理想だと思う。心が洗われる本。

好きな場面
・同世代が日本で写真家として成功する中、焦燥感にかられていた筆者のところに恩師から勇気づけられる手紙が届く場面
・長く家を開けてたのに、帰ってきたらちゃんと迎えてくれるウイスキーに感謝する場面
ウイスキーが死ぬ直前に、深夜の散歩をする場面

ウイスキー! さよなら、ニューヨーク

ウイスキー! さよなら、ニューヨーク

磨き上げられた戦争のノウハウ 『戦術と指揮』感想

 自分と関係ないことでも、卓越した技術とか洗練された考え方とかいう人間の成果物にふれるとき、美しい芸術品を見るときと似た感動を覚える。俺は軍人ではなく民間企業に勤めるサラリーマンだし、その会社が武器を売ってたりするわけではない。それなのにこの本を読んで、戦術の奥深い世界の片鱗を見て「すげえなァー」と感嘆するのはこういうことなんだろう。
 自分が頼っている考え方、技術、理論とは別のところに別の洗練された考え方、技術、理論等の知見が確立されていて、そういうのを知れたとき、純粋にすげえなぁと思うのと同時に自分の世界がちょっと広がったような気がする。そういう、知的な贅沢をできる本が俺は大好きなんだよね。

この『戦術と指揮』はまさにそういう類の本で、読み終わった直後の俺は、めちゃ美味しいフレンチのコース料理の最後に出てくるコーヒーを飲んでる時のような、快い満足感に浸ることができた。

 さてこの『戦術と指揮』は、戦いの様々な場面において、目標達成のためにどんな行動をとるべきか、その判断の仕方が書かれた本である。この本で特筆すべきなのが、クイズ形式で話が進んでいくという独特のスタイルだ。単純に「○○の状況のとき、××の行動を取るのが良い」と書くのではなく、「○○の状況で、最善の行動はどちらか? A:△△ B:××」みたいな感じで要点部分がクイズになっている。問われると一度自分でも考えることになるので、解説が頭に入って来やすく、地味な工夫ながら大変ありがたかった。


ではこの本の面白かったところを何点かあげてみる。

■地形等の条件に応じた戦い方のセオリー
 「障害は敵に遠く渡れ」「森林では小さい単位で動く」「川沿いの防御は一歩引いたところで」など、戦術の常識らしき、地形ごとの戦い方のセオリーがたくさん解説されている。答えだけ聞いてもなんで?って感じだが、その答えである理由を聞いて納得する。この振れ幅(疑念⇔納得)の大きさがすごくて知的興奮がある。

■軍の意志決定のシステム
 軍の意思決定のシステムは官僚や民間企業のそれとは全然違うらしい。軍では指揮官だけが責任をもって作戦を決定する。参謀とか、役職の高い人等もいるけど、彼らは情報や意見を提供するだけで、決めるのは指揮官の仕事。民間だと重要な決定事項は偉い人の会議とかで決まるので責任の所在が曖昧。この違いはなんでかわからんけど、多分スピードと確実性のどちらを重視するかの違いかと思う。
 あと、命令違反に対する考え方もだいぶ違っていて、軍隊では合理的と思えば状況に応じて命令違反しても良いという考え方があるらしい。これは現場が一番戦況を良く知っているという考えから来るもので、これも戦場ではスピードが最も重視されることが原因だろう。

■戦場での意思決定の難しさ
戦術にもある程度のセオリーがあるわけだけど、戦場における状況には無限のパターンがあるので一概に当てはめることはできない。地形、敵の疲労具合、敵将の性格、抑えるべき要所、自軍の志気、等の無数の要素を考慮して目標達成のために最善の行動を素早く判断していかないといけない。一瞬の判断の遅れが致命的になり得るし、しかも戦況は毎秒ごとに変化していくので、信じられないほどの難しさなんじゃないかと思う。指揮官に対してリスペクトの念がこみ上げる。


 こんな感じで、自分と別の分野で自分の思いも寄らないことか考えられ実行されてるんやな~、というある意味異文化を知るみたいな感動がある。
 知的好奇心を満たすのに最高だったし、単に読み物としてもストーリーとクイズで構成されていてあきさせない作りになってて面白い。そして軍事とは言えど本質は目標達成のための知恵であるので自分の人生的にも示唆に富んでいる。色んな分野でこういう本に出会っていきたいな~と思った。

戦術と指揮―命令の与え方・集団の動かし方 (PHP文庫)

戦術と指揮―命令の与え方・集団の動かし方 (PHP文庫)

幸せで苦しい恋愛『ウエハースの椅子』感想

 「絶望」と聞いてどんな感情を思い浮かべますか?何か脅威となるものが現れたり、拠り所としていたものがなくなったりして「うわ~~~」と叫んで膝から崩れ落ちそうになる感じを俺はイメージする。わりと絶望のイメージって一般的にそんなもんと違うかな。
 この『ウエハースの椅子』を初めて読んだ時によくわからんなーという印象を抱いたのは、ここでの絶望の書かれ方と自分の中の絶望のイメージとの違いが原因だったように思う。つまり冒頭に挙げたような「激しく熱い感情としての絶望」のイメージとは正反対の、「静かで冷たい感情としての絶望」がこの小説では描かれている。

 主人公は絵を描いて生計を立てている中年女性の「私」。7年前からつき合っている恋人がいて、恋人といるときは満ち足りた気分であるという。しかし問題が一つ。その恋人は妻子持ちであり、「私」は彼に家族を手放すつもりがないことに気付いている。
 そしていつしか「私」は、自分とって恋人は世界の全てであるのに、恋人にとって「私」は世界の一部に過ぎないのでは、という思いにとらわれるようになる。しかし恋人と「私」は確かに深く愛し合っていて、2人の関係は(表面上は)何事もなく平坦に続いていく。

 そんな話。物語はとても冷静で抑えられた(まるで自分のことではないかのような)一人称で語られるも、それでもなお主人公の絶望の圧倒的な強さが伝わってくる。

 恋人は私を拒絶せず受け入れてくれるが、私のものにはならない。フラッシュバックする「はぐれ者」としての子供時代の記憶。私はこれからずっと、この現状のまま、恋人といる閉じた世界に閉じこめられ、本当の幸せにはたどり着けずに過ごしていかなければならないのか~(>_<) そんな八方塞がりの絶望感。もちろんこんな直接的に描写されてるわけではなく、自分の生活や過去の思い出、恋人との会話などを淡々と語る中で浮かび上がってくる感じ。

 愛しあう恋人がいるのに孤独、満ち足りているのに絶望してる。そんな主人公の複雑な心境に深く共感できるほどの人生経験はないけど、少なくとも主人公の絶望感の強烈さに背筋の凍るような凄みを感じて、それだけでこの小説を読んで良かったと思う。

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)