天才を超えるためには何が必要か『やり抜く力』感想

「努力で才能を越えることはできるか」という問いについては、誰もが考えたことがあるんじゃないだろうか。努力か才能を越えると信じたい、しかし才能のある人間の能力は圧倒的に見える。うさぎと亀の話では亀が勝ったが、うさぎがドジでなければ亀が勝つことはできない。そんなうさぎに対する無力感、諦めに似た気持ちを、いわゆる「天才」に対して多くの人が感じて生きてきたのではないだろうか。

ここに朗報がある。成功するために最も必要な資質は才能ではなく、「やり抜く力」だそうだ。

この本の筆者は長年に渡る「成功するために必要な資質」の研究を通じ、「やり抜く力(Grit)」が最も重要であることを導き出した。曰く、成功するには「スキル×経験量」を最大化する必要があり、スキルを身につけるには「才能×努力」、経験を身につけるには「努力」が必要になる。ここで「努力」が2回掛けられている分、努力し続けることが才能よりも成功に強く影響するファクターだということになる。才能がないが人並み以上に努力し続ける人間が、才能があっても努力が人並みな人間を凌駕する可能性があるということだ。本書ではこのことを示す実験結果や実例が多く書かれており、説得力がある。

また、そもそも天才には全く敵わないと我々に思わせるものは何だろうか?という問いに対しても本書は(ニーチェを引用しつつ)次のような回答を与えている。すなわち、圧倒的な者を自分と比較すると、自分の欠点を認識し、劣等感を持たざるを得ない。このストレスを回避すべく、人は圧倒的な者を自分とは比較対象外のもの(天才)としてカテゴライズしてしまうのだ(「あいつは天才だから、自分が敵わないのは仕方ない。自分に落ち度はない」といった風に)。しかし圧倒的な実力を持つ人間は得てして、それを身につけるまでに、気の遠くなるような練習量で、一つ一つ、技術を磨いてきた結果としてそうなっているのだ。

このことは、本当に忘れないようにしたいと思った。

上記のようなことの他に、この本ではやり抜く力の身につけ方、やり抜く力を持たせる教育についてなど、実用的な知見にあふれているので、何かの分野で成功したい人は是非読んでみてください。

 

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

 

 

巨大自動車メーカーの表と裏『トヨトミの野望』感想

愛知県豊臣市(架空の都市)に本社を構える大手自動車メーカー「トヨトミ自動車」をめぐる様々な事件や人間模様を描いた小説。

 主人公はトヨトミ自動車の社長である武田という男。昔はあまりに遠慮なしにものを言うので会社では疎まれフィリピンに飛ばされるなど不遇の時代もあったが、実力でのし上がり、ついに社長の座にのぼりつめた。この武田、社長としてもすごく有能で、ハイブリット車の生産計画前倒しや長年豊臣自動車がかなわなかった中国進出などを持ち前の先見性と剛腕で成し遂げていき、トヨトミ自動車の成長に貢献する。この小説の一番面白いのはこの辺の、社内でも沢山異論があったりライバルや社会からの抵抗があったりする中、会社の運命を次々と切り開いていくという痛快なところだ。言ってみれば、ビジネス版ヒーロー物といった趣がある。ところが武田社長が猛威を振るうのは小説の中盤までで、ここからこの小説の(多分)メインテーマである「創業家」の色が強く表れてくる。実はこのトヨトミ自動車では豊臣家という創業家の権力がとても強く、創業家でなければ社長であってもただの使用人にすぎない、つまり誰も創業家には逆らえないという掟がある。これは資本主義を体現する存在であるはずのグローバル企業としては違和感があり、主人公の武田社長も問題ととらえている。そこで必然的に「武田社長VS創業家」という構図が生まれ、トヨトミ自動車の華々しい成長の裏腹の泥仕合が繰り広げられる。この対立の行方はどうなるのか、そしてその結果がトヨトミ自動車の運命をどう変えていくのか。この辺りもちょっと意外性があって見どころ。

 

全体的に文体がジャーナリスト的で、現実の会社や事件をモデルにしていることもあって、ノンフィクション的な面白さがある。ただちょっと人物の描き方が平板なのと、登場人物の人間性を説明するためのエピソードの挿入の仕方が若干不自然なのが気になる部分ではある。とはいうものの、年商10兆超えのグローバル企業の上層部で行われる出来事のスリリングさ、スケール感に比べれば些細な問題だ。会社で偉くなりたいと思っている人は大体面白く読める本だと思う。  

本当に組織のためになる人材とは『採用基準』感想

マッキンゼーの筆者が、マッキンゼーの採用基準について書いた本。

 

マッキンゼーは超頭いい人しか入れないというイメージだったが、そのような地頭の良さよりも「リーダーシップ」が重要な採用基準だとのことで、さらにマッキンゼーだけでなく世界的にリーダーシップが重視されていると述べられている(ただし日本は例外)。そう、この本は『採用基準』という名前にはなっているが、リーダーシップについての本である。

 

リーダーシップとは組織の目標を達成するために当事者意識を持って考えアクションを起こす能力のことだ。だからリーダーシップはリーダー的な立場の人だけに求められるものではなく、構成員全てが発揮すべきものなのだそう。「○○については思うところはあるが、俺の担当部分ではないから関知しないでおこう」というのはリーダーシップ的な行動ではない。

 

そして和を尊ぶ日本の組織には上のようなリーダーシップの考え方は浸透していない。というのも、「組織の目標達成」と「組織の和」が対立する場面は必ずあるからだ。しかしここで後者を優先させる組織が前者を優先させる組織(つまりリーダーシップが浸透している組織)に負けてしまうのは明らかだ。筆者はその点で日本企業に警鐘を鳴らしている。リーダーシップを重視せよ、と。

 

縦割り、セクショナリズム官僚主義こういった非効率は組織にありがち(多分日本企業のみならず)だが、リーダーシップを持った人間こそがこの非効率を低減できるのだと思う。

そしてまた、リーダーシップを養うことの効用は組織だけではなく個人についても言える、と筆者は説く。すなわち、リーダーシップを身に付けた人間は、自分の人生の行き先や目標を人に預けるのではなく、自分でコントロールできるようになるというのだ。リーダーシップは組織、仕事以外でも活用できる能力だとも言える。

 

セクショナリズムに陥るのはそれが各人にとって楽だからだと思うが、いかにこの楽したいというモチベーションを超えてリーダーシップを発揮させるか、というのが難しいように思った。

  

お茶に見る日本人のユニークな美意識『book of tea』感想

岡倉天心という人が外国人に、日本の茶の文化と精神を紹介するために書いた本。

西洋人は日本文化について、西洋文化より劣ったものと考えがちだったが、それを否定している。西洋文化と日本文化の違いは優劣ではなく方向性の違いであると。

 

茶の起源はインド→中国だが、これが禅宗と一緒に日本に輸入された後、日本では禅の精神が茶と結びつくという、独自の根付き方をした(禅の起こりは中国だが、モンゴルの襲来により中国の禅は駆逐されてしまった)。

日本でのお茶の作法はただのマナーではなく、純粋さと洗練への崇拝を体現するものだという話がこの本の基調で、確かに西洋の合理性を追求する思想とは方向性が全然違うし日本の芸術全般についても同じような傾向が見て取れるから、これには納得させられる。

またお茶の作法に関するいろいろな要素を持ち出して日本人の精神性・美意識が説明されている。面白かったのは純粋にお茶を楽しめるように茶室をわざとさびれた見た目に作っているけど、それは雑なわけではなく配色とか素材や飾りについてよくよく考え抜いて調和を保ったうえで寂れさせている、という話と、利休が弟子に「庭をきれいにせよ」と命じて弟子がめちゃ頑張って庭の石を一つ一つ磨いたり落ち葉を全部掃除したりしたけど、利休は「違う」と言って、あえて庭に枯れ葉を巻いて季節感を演出し、弟子に美しさとは何たるかを分からせた話。

 

短いけど時間あるときにもっとちゃんとまとめようと思います。

 

○原文↓

 

○日本語版↓

フィクション世界を真面目に研究する遊び『ゾンビで分かる神経科学』

薬学をやっている弟に借りて読んだ本。ゾンビにも神経科学にもそんなに興味はなかったが、ゾンビと神経科学を組み合わせて本を書こうという作者の考えが面白いと思ったので読んでみた。

 

神経科学というのは、人間とか動物とかが神経や脳を使ってどのように世界を認識してそれにたいして行動を起こしていくか、のメカニズムを解明しようとする学問だ(正確な定義ではないと思うが)。そしてゾンビは神経や脳の機能が損なわれた存在であるがゆえに、神経や脳の様々な働きを説明するのに都合がよい。そのためフィクション上の存在ではあるが、筆者はゾンビの脳のどの部分が損傷していると考えられるかを真面目に診断し、それを踏まえてゾンビに食われないためのアドバイスを伝授してくれる。

 

例えば、ゾンビは記憶力と注意力が低い。これは側頭葉と頭頂葉の損傷のためだそうだ。だからもしゾンビに遭遇して逃げることが難しければ、物陰に隠れてゾンビが他のことに注意をとられるのを待つのが良いとのことである(ゾンビには痛みへの情動的反応を処理する神経回路が残っていないため、闘うのは推奨されていない)。

 

というような実践的(?)な助言も得ることができるが、基本的にはこの本は神経科学の説明にゾンビを使う、という進め方なので、見た目の割に真面目な本だし、知覚、認識、運動、睡眠に関わる脳の様々な働きについて広く知ることができる良書だと思った。

 

ゾンビは危険で怖い存在だけども、「特殊な神経障害に掛かっている人間」にすぎないと理解すれば怖さも少しは薄れる。これは科学的な手法によってゾンビが「意味不明なもの」から「理解可能、対処可能なもの」に変わるからで、そういう意味で科学は心強いなあと思う(ゾンビはフィクションだが)(フィクションの世界の物を冷静に科学的に分析する面白さは『空想科学読本』のそれと似ている)。

あと作者のゾンビ好きが高じてできた本なので文章が楽しそうなのも良かった。

 

 

戦争は撃ち合うだけじゃない『補給線』

戦争と言えばやっぱり戦闘の場面が真っ先に思い浮かぶ。戦車とか兵士とかが陣形を組んで激しく撃ち合いをして、走ったり血を流したり絶望したり歓喜したりするような、そんな場面。そこでどのように行動するかが勝敗を決める、と早計な人は考えがちだが、勝敗を決めるのはそこだけではない。

 

戦闘に至る道のりを進み、弾薬や食糧を調達し輸送する、というところから戦争はすでに始まっている。戦争での人や物の輸送・移動を「兵站」というが、兵站も戦争にとって非常に重要な側面らしい。

 

兵士も人間なので食べないと戦う前に死んでしまう。弾切れになったら降伏するしかない。兵站・補給は簡単な問題のように見えるが、必要な食糧や弾薬の量が膨大になることから、実は全然簡単ではなく、むしろ戦争のしかたに強い制約を加える要素なのである。そういうことを書いたのがこの本。マニアックだが戦争本界隈では名著扱いされているようだ。

 

補給制度がなく、食糧などを馬に運ばせ、それが尽きたら周辺の村から強奪したり購入したりしていた16~17世紀から、ナポレオンを筆頭に補給制度が試行錯誤のうちに作られはじめ、そして鉄道や自動車が発明されて兵站の形が変わっていくまで、兵站がどう戦争に制約をかけてきたのか、そしてかつての指揮官らはいかにしてその制約の中で最大の成果を上げる工夫をしてきたのかが執拗なまでに詳しく具体的に書かれている。

 

正直かなり難しくて何度もギブアップしかけたが、読み終わる頃には戦争への理解が一段以上は上がるような本だと思った。しかしむずい。

 

 

鋭く愛のある人間観察 『無名仮名人名簿』感想

ドラマ脚本家・向田邦子氏のエッセイ集。

 

大人といえば「真面目で、品行良く、気が利き、しっかりとした人」という大人像があると思うが、実際のところ世の中にはそうでない大人も多く存在する。まぬけだったり怠惰だったり、妙な癖があったり卑しかったり。そういう、いわゆる人間のだめな部分、弱い部分を観察して詰め込んだような一冊となっている。

 

読んでると、自分の数々の欠点がまとめて許されたような気になってくる。世の中にはしっかりしていない大人も多いけど、そういうだめな部分、人間臭い部分を愛おしむ筆者の視点が新鮮で、素敵だと思った。

 

無名仮名人名簿 (文春文庫)

無名仮名人名簿 (文春文庫)